討幕運動の展開

 幕府に屈服した長州藩でもあたらしい動きがおこっていた。
攘夷の不可能をさとった高杉晋作・桂小五郎(木戸孝允)らの革新派が、保守的な藩の上層部に反発し、高杉はさきに組織した奇兵隊をひきいて1864年末に下関で兵をあげ、藩の主導権をにぎった。
この革新勢力は領内の豪農や村役人と結んで、藩論を恭順から討幕へと回転させていった。
 幕府は長州藩に対して、第1次出兵の結末として、領地の削減などを命じたが、藩論を一変した長州藩は容易に応じなかった。
 そこで幕府はふたたび長州征討(第2次)を宣言したが、すでに開国進取に転じていた薩摩藩は、ひそかに長州藩を支持する態度をとった。
翌1866年には、土佐藩出身の坂本竜馬・中岡慎太郎らの仲介で薩摩藩は長州藩と軍事同盟の密約を結び(薩長連合)、反幕府の態度をかためた。
したがって第2次長州征討がはじまっても、戦況は幕府軍に不利に展開し、幕府はまもなく大坂城中に出陣中の将軍家茂の急死を理由に、戦闘を中止した。
開国にともなう経済の混乱と、政局をめぐる抗争は、社会の不安を大きくし、世相を険悪にした。
国学の尊王思想は農村にも広まって、世直しの声は農民の一揆でもさけばれ(世直し一揆)、長州征討の最中に大坂や江戸でおこった打ちこわしには、為政者への不信がはっきりと示されていた。
いっぽう、大和に天理教、備前に黒住教、備中に金光教など、のちに教派神道とよばれる民衆宗教がすでにうまれていたが、このころ急激に普及して、伊勢神宮への御蔭参りの流行とともに、時代の転換期のゆきづまった世相から救われたいという民衆の願いにこたえていた。
1867年、東海・畿内一帯に熱狂的におこった「ええじゃないか」の乱舞は、宗教的形態をとった民衆運動として、討幕運動にも影響をあたえていった。

幕府の滅亡

 家茂のあと15代将軍となった徳川慶喜は、フランス公使ロッシュの建策によって幕政の建て直しにつとめた。しかし、幕府は長州征討の後始末問題で薩摩藩と衝突し、1867年、連合していた薩長両藩は武力討幕を決意した。
これに対し土佐藩はあくまで公武合体の立場をとり、藩士の後藤象二郎と坂本竜馬とがはかって、前藩主の山内豊信をとおして将軍慶喜に、討幕派の機先を制して政権の返還を行うようにすすめた。
慶喜もこの策を受け入れ、ついに10月14日、大政奉還の上表を朝廷に提出した。

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室町幕府の成立
幕藩体制の成立
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一揆と打ちこわし
討幕運動の展開
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経済大国の苦悩
基本的人権の保障
国際連合と国際協力
市場経済の仕組み
食糧問題と農業・水産業

新政府との対決

 ところが武力討幕をめざす薩長両藩は、朝廷内の岩倉具視らと結んで討幕の密勅を同じ日にうけていた。大政奉還で機先を制されることをおそれた討幕派12月9日に政変を決行し、いわゆる王政復古の大号令を発して、天皇を中心とする新政府を樹立した。
新政府は幕府はもちろん、朝廷の摂政・関白も廃して、天皇のもとにあらたに総裁・議定・参与の三職をおき、参与には薩摩藩やそのほか有力諸藩の代表的人物を入れて雄藩連合の形をとった。
また同日夜の三職による小御所会議で、慶喜に内大臣の辞退と朝廷への領地の一部返上を命じることにしたので(辞官納地)、慶喜は大坂城に引き上げ、新政府と対決することになった。

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